Director’s Message 監督からのメッセージ
森のなかの絶唱 坂口香津美(監督)
私は約25年間に亘り、地上波のテレビのドキュメンタリー番組の制作を行って来た。そして、1999年から映画製作を開始し、これまで4本の映画(劇映画3本と本作のドキュメンタリー映画1本 )を製作し、配給会社を通じて劇場公開を行った。テレビの番組はニュース番組の特集を含めると制作本数は200本を越えるが、すべて自ら企画を立案し、番組に提案し、採用された上で制作を行い、放送されたものである。紆余曲折はあるが、現在もディレクターとしてテレビ番組を作り続けている。そんな私がなぜ、映画を作るのか。テレビとは摩訶不思議なメディアで、長年、制作の現場にいると時折、本人にさえ誰に向かって作っているのか、何のために作っているのか、茫漠且つ暗澹となることがある。顔の見えない視聴者という名の大衆、大衆という名の曖昧。泥沼をもがいているような閉塞感と掴みどころのない得体の知れない寂寥感に包まれる。そして、仕舞には虚無の海に溺れかかる自分と対峙することになる。新たな表現領域を求めて映画製作に手を染めたのにはそういう背景がある。盟友のプロデューサー、落合篤子と映像製作会社スーパーサウルスを設立、映画製作に乗り出したのは1999年のことだ。
私たちの映画製作は次の二点に集約される。企画がオリジナルであること。製作費は他から一切の資金援助を受けない、「100%自前の映画」であること。私の映画作法とは次のようなものである。作品のテーマは日々の生活の中で、ある時、澱のように溜まる違和感が見出され、それが膨らみ始め、やがて森のように出現して来る。徐々に肥大化した森は最早、それと対峙しなければ一歩も先に進めない壁となって立ちはだかる。そこで、初めて森に入り、小さな穴を掘り始める。
一心不乱に、深く、深く、森の核心をめざして掘り続ける。限られた同志とともに…。そうやって、これまで本作も含め4本の作品を生み出して来た。
さて、本作「夏の祈り」である。発端は、日本テレビの番組「NNNドキュメント」で放送した児童養護施設を舞台にしたドキュメント番組「かりんの家」のディレクターを務めていた私は、撮影が始まると間もなく、取材先の児童養護施設の理事長のO氏に声をかけられた。「長崎のU 養育院(児童養護施設)に行ったことがありますか? そこでは原爆で何人もの子どもたちが亡くなりました」と。数日後、その言葉に突き動かされるように私は長崎に飛んでいた。その時の気持ちを今もうまく言葉にできずにいるが、後になって気づいたのは私のなかに長年、ひそかに眠っていた大伯母の記憶が私を突き動かしたのではないか。というのも、彼女は当時、広島で看護師をしていたが、当時17歳の娘(女子学徒隊)と夫を原爆で喪い、彼女自身も被爆。やがて、原爆症で身体の自由がきかなくなり、失意の果てに、郷里の鹿児島県種子島に妹夫婦を頼って帰郷を余儀なくされた。ひとり、古い一軒家に住み、原爆症と対峙し、もがく姿は、少年だった私の脳裏に原爆という空恐ろしいものがこの世に存在するという底知れぬ恐怖心と衝撃を刻印し、植え付けた。
U養育院で私が出会った同養育院出身者の一人が、本作の主人公の本多シズ子さんである。「どこにお住まいですか?」と耳元で大声で訊ねると、車椅子で眼帯をした本多さんは「原爆ホームです」とはっきりした声で応えた。原爆ホーム、その不思議な響きの名称がまず私を惹きつけた。2009年2月、原爆ホームを初めて訪ねた日の未明、うっそうとした森の山道を移動するタクシーの車内から撮影を開始した。
これまで私が手がけた映画は、社会から疎外され、苦難にあえぐ人々を主人公にして来た。処女作「青の塔」は、ひきこもりの青年の自立への目覚めを、「カタルシス」は、殺人事件を犯した少年の罪との出会いを、「ネムリユスリカ」は、性犯罪被害者の少女と家族の絶望と再生を描いている。「夏の祈り」が描く被爆者と、カトリック信者、両者もまた長年の比類ない、想像を絶する苦しみ、哀しみを負っている。被爆者は人間が作り出した核兵器という名の大量破壊兵器による初めての犠牲者であり、カトリック信者は450年前から厳しいキリシタン弾圧と迫害を受けながらも自らの信仰を守り通してきた。そのカトリックの聖地、長崎に原爆が投下されるのである。その象徴が、被爆地から500メートル の地点にある浦上天主堂の崩壊である。信仰の弾圧からの解放とようやく手にした祈りもつかの間、追い打ちをかけるような原爆の地獄図、それでも人々は祈り続けることで人間としての尊厳を失わず、闘い、生き抜いて来た。
森の中にある被爆者のための特別養護老人ホーム「恵の丘長崎原爆ホーム」での2年間に及ぶ単独の撮影行は、人として生きることの意味とは何か、使命とは何かを私に突きつけた。そして、撮影を通じて、原爆ホームで出会い、ひとときを過ごした高齢被爆者たちとの離別が繰り返された。原爆投下から67年目の夏、今や施設の入居者の大半が70歳を超え、全員、車椅子での生活だ。被爆による種々の疾患を抱える入居者の記憶の螺旋階段が行き着く先には、1945年8月9日の被爆体験がある。医学の世界では、長年、被爆の人体に及ぼす影響について細胞レベルでの研究が行われているが、今尚、未知の領域で、「研究は入り口にも達していない、全容究明にはこの先どれほど時間を要するか想像すらできない。被爆者の命のカウントダウンは始まっているのに…」と若き研究者は嘆息する。時間は非情であらゆるものを過去へ押しやろうとするが、抗うように留まるものもある。記憶である。記憶の認識と再現こそが人々に生きる力を与える。晩年を迎えた入居者は、内なる原爆の記憶の存在にあらためて気付き、誰に強制されたわけでもないのに思うように動けない身体機能を総動員、眠りかけた記憶を懸命に揺り動かして自らの体験を劇にして創り上げるために全員一丸となる。
被爆劇の上演は年に数度、施設内での舞台に限定されている。長崎市内から車で約1時間、森の奥にある施設という立地条件ゆえに修学旅行で来訪する小中高校の数も限られる。発表の場と機会が限られているがゆえに、お年寄り達のパフォーマンスは周囲も圧倒されるほど濃密に火花を散らす。衰えた身体に鞭打って演技は壮絶を極まれる。普段は施設内の平穏な日常の中にいて口数も少ないお年よりたち、それが一旦、被爆劇の舞台に立つと鬼のような形相に変わる。客席を埋める子どもたちの姿も視界にないとばかりに一心不乱に自らの出番を演じ切る。蝉が昼夜別なくひとしきり啼いて、ある朝、突如、音もなく旅立つように、心身に深く刻印されたあの夏の日の記憶を、これが最後とばかりにほとばしるように記憶を発露する。客席の子どもたちを前に、これを伝えずには死ねないとばかりに。その舞台を子どもたちは息を呑んで凝視する。子供たちが涙を流しているのは感動の涙だけではない。子どもたちは初めて目にするお年寄りたちの死をも賭けたあの夏の日の再現に畏怖の念さえも感じ、知らずに泣かされている。そうやって、新しい世代への記憶の伝承が、この小さな舞台で実現する。
2011年3月11日、長崎での最後の撮影を終えて帰京した私は、これまで体験したことのない激しい揺れに襲われた。5 階の自室は初めて経験する長い振動に揺れに揺れ、それは大津波の襲来、原発事故へとつながる半鐘だった。事故の終息は今なお、霧の中であるが、3.11は分水嶺となり、私たち個々に大切なものは何であるかを突きつけている。1945、2011、私たち日本人は、原爆と原発、核、放射能、放射性物質の恐怖を世界で最も間近で知る国民となった。一度、放出され、汚染、飛散、拡散した放射能や放射性物質は気が遠くなるような半減期を経てからでないと完全に消滅させることは不可能で、遠くない将来、それらが私たちの身体にいかなる影響を及ぼすかは誰も予測できない。そして、私たちは今日も見えない恐怖を含んだ食物を不安とともに口にする。今、私たちにできることは何か。それは、命がけで今起こっていることを記憶し続けることであるかもしれない。1945を人々が記憶しているように、私たちも2011を、日々刻々と変容する現実を痛みとともに今こそ記憶しなければならない。強く記憶した者だけが迸るようにその記憶を発露することができる。新しい未来に、その記憶を伝承し、継承するために。祈るように、脳に灼きつくぐらい鮮烈に。